神戸ヒヨコ登山会
歴史
神戸ヒヨコ登山会の誕生(大正11年10月5日)当時、裏山には神戸徒歩会、神戸鶏鳴徒歩会、神戸山登里会等々、多数の登山会があって賑わっていました。高い山には全くの素人、いうなれば黄色いヒヨコであることから、本を読んだり、講習会など実績を積んで一人前になろうという意味で「神戸ヒヨコ登山会」と命名したといわれています。昭和7年に10周年を迎え会員数は957名に、昭和13年には1339名にまで増加したが、昭和19年には太平洋戦局いよいよ苛烈を極め登山どころではなくなり853名までに減少していきました。昭和22年、有志によって復活、戦後のヒヨコ登山会への発足であります。再度支部に続いて高取支部、布引支部は戦前からあり昭和28年ごろに復活、また、保久良支部も新しく設立されました。一王山支部も戦前からあり昭和36年に復活、また、昭和39年に旗振支部も設立、昭和48年以降に唐櫃支部が発足に至っています。昭和54、55年の1500名台をピークに減少化傾向がみられます。また、昭和56年ごろの新聞やテレビでヒヨコ登山会が紹介され18,574回の毎日登山の未踏の新記録を達成したと60周年記念誌に掲載されています。愛山協会は大正11年に山火事防止、緑化運動を柱に愛山思想の普及と親睦を計ることを目的に結成されました。また、戦後の栄養失調の市民が多い時期に健康登山を提唱して「市民山の会」が昭和22年9月1日に発足しました。また、兵庫県山岳連盟は山の集い、連合登山、登山技術、遭難対策など各種登山に関する指導研修を目的として昭和23年2月に発足したと70周年記念誌に掲載されています。80周年記念誌では梶明会長が当初に名付けた「ヒヨコ」の精神を忘れないために、10年毎の式典と共に創設者の心を想起し、決して驕ることの無いように原点に戻り、雄叫びするニワトリにならないように、来し方を反省するものでありますと記されています。90周年を迎えて吉野宏会長はよちよち歩くヒヨコの集団になぞらえて「親と子供の絆」、「子供どうしの絆」、先人の残した精神に学び、そこから学ぶ「助け合いの精神」や「奉仕の精神」を見据えた上で「ヒヨコ登山会」があると確信されています。また、近年の高齢化社会において「めざせ100年、元気なヒヨコ!」を目標に平成26年の定時総会を終えて新たにスタートしました。
神戸ヒヨコ登山会の変遷 |
|||
年次 |
会員数 |
会長 |
|
大正11年 |
10名 |
福井豊三郎 |
|
昭和2年 |
1275名 |
吉川晴嵐 |
|
昭和10年 |
吉川晴嵐 |
||
昭和18年 |
折戸辰夫 |
||
昭和22年 |
15名 |
折戸辰夫 |
|
昭和28年 |
大井手松一 |
||
昭和36年 |
長谷川剣 |
||
昭和40年 |
橋爪忠 |
||
昭和46年 |
1011名 |
橋爪忠 |
|
昭和48年 |
1157名 |
安田寅一 |
|
昭和50年 |
1210名 |
安田寅一 |
|
昭和52年 |
1345名 |
安田寅一 |
|
昭和54年 |
1518名 |
安田寅一 |
|
昭和58年 |
1331名 |
安田寅一 |
|
昭和58年 |
1331名 |
下倉四郎 |
|
平成元年 |
1289名 |
梶 明 |
|
平成3年 |
1286名 |
梶 明 |
|
平成7年 |
1265名 |
梶明 |
|
平成17年 |
824名 |
櫻井長登志 |
|
平成24年 |
698名 |
吉野 宏 |
神戸ヒヨコ登山会 の変遷を示しました。